こんにちは。
すっきり暮らしたいリリーです。
みなさん、捨てられないものに対する対応ってどうされていますか?
私も多分、本来の私は物がきっと好きな部類に振り分けられる人間だと思うので
(趣味のものとか、あっという間に増えやすい)
物を捨てるというのは心が痛む行為であります。
好きなものをコレクションしては、
それを眺めてうっとりするタイプw。
それでも、どうしてこんなにも捨てようと思えるのか。
やはり、それは家族を持ったから。
家事に育児にパートの仕事、やることが多いから、
なのだろうと思われます。
やることが多い。
と、同時に。
やってあげたいことも多い、のです。
子供の習い事。
子供たちのやりたいことへのサポート。
そういったことに、時間を使いたい。
=もちろん、自分の時間は削られます。
次なる場所は、家事になってきますね。
いやいや、仕事もしてるわけだから、
それだけでも家事に割く時間も限られるわけですよ!
それでも、ですねぇ。
物を減らしてくると、掃除がしやすかったり、
常にきれいがキープ出来てくると
「掃除しなきゃ」が
「掃除したい」に変わってくるのですw。
飾ってあったはずのものに
埃が積もっていたり。
大事にとっておいてあったはずの本にさえ
埃が積もっていたり。
(本は、読まないと虫もつくので意外と要注意だったりします。)
つまり、家の中の掃除というだけでなく
自分の趣味だったもの達への保管状態が気になるようになってきてしまいました。
埃が積もるほどに手に取っていないなら
処分してもいいではないか、
と傍目には思われるでしょうが。
いやいやいやいや。
捨てられない。
捨てられない。
と、同時に。
埃が積もっているほどに、大事にしていないのがリアルな現実なのに、
捨てられないほどの思いを私はどうして持っているのか?
と、これは心の問題ではないのか?と気がつくわけです。
大好きだったものを手放す不安。
それは、身の半身を失うかのような寂しさ。
しかし、目に写るのは埃をかぶっている姿。
こういった物達を相手にする時の、
最近の私の対処方法はこのようにしています。
大きめの段ボール箱を用意して。
その中に詰める。
「まだ捨てると決めたわけじゃないから」
そう言って、自分から不安を取り除いてあげます。
捨てない選択をする余地を残してあげます。
そうして、また普段通りの生活を送る。
大事だったあの子達のいた場所には
余白という空間があるだけ。
すっきりとした、空間。
あぁ、今の私は、こちらの方が好きだ、と。
いつしか、大事だったあの子達は
自然と手放せる距離に移動しています。
そうして、処分のための準備をします。
もう心の痛みはありません。
爽やかに、ありがとう、と手放します。
物というものは、
自分の手に渡ってきたと同時に
そこに命が吹き込まれるのだろうと思います。
「私の場」において、それは
「無機質な物」としてでなく
「命あるもの」として存在するようになるのです。
それが人なら。
別れる時が来たなら、去っていくでしょう。
どんなにすがっても、
叶わない相手であれば、
去っていってしまうでしょう。
しかし、物は。
自分から離れていってはくれません。
自分から離していかなくては
私の元から離れていくことはないのです。
でも、積もった埃が現実を教えてくれています。
段ボール箱は、自分自身へのせめてもの優しさ。
さようなら、と言う時間を与えてあげる。
これにより、苦しみを最小限にして
手放すことを無理なく出来るようになります。
壮大ですねw。
たかだか物に。
でも、されど物。
こんなに葛藤するなら、と。
今ではむやみに物を買わなくなりましたw。
良きw。
お読みいただき、ありがとうございます。
すっきりとしたリビングには、
今は長男が始めた習い事のギターが
ブラックのカホンと一緒にカッコよく並んでいます。
今の私が大事にしたいことが
生活の中で輝いています。
それでは。
すっきり暮らしたいリリーです。
みなさん、捨てられないものに対する対応ってどうされていますか?
私も多分、本来の私は物がきっと好きな部類に振り分けられる人間だと思うので
(趣味のものとか、あっという間に増えやすい)
物を捨てるというのは心が痛む行為であります。
好きなものをコレクションしては、
それを眺めてうっとりするタイプw。
それでも、どうしてこんなにも捨てようと思えるのか。
やはり、それは家族を持ったから。
家事に育児にパートの仕事、やることが多いから、
なのだろうと思われます。
やることが多い。
と、同時に。
やってあげたいことも多い、のです。
子供の習い事。
子供たちのやりたいことへのサポート。
そういったことに、時間を使いたい。
=もちろん、自分の時間は削られます。
次なる場所は、家事になってきますね。
いやいや、仕事もしてるわけだから、
それだけでも家事に割く時間も限られるわけですよ!
それでも、ですねぇ。
物を減らしてくると、掃除がしやすかったり、
常にきれいがキープ出来てくると
「掃除しなきゃ」が
「掃除したい」に変わってくるのですw。
飾ってあったはずのものに
埃が積もっていたり。
大事にとっておいてあったはずの本にさえ
埃が積もっていたり。
(本は、読まないと虫もつくので意外と要注意だったりします。)
つまり、家の中の掃除というだけでなく
自分の趣味だったもの達への保管状態が気になるようになってきてしまいました。
埃が積もるほどに手に取っていないなら
処分してもいいではないか、
と傍目には思われるでしょうが。
いやいやいやいや。
捨てられない。
捨てられない。
と、同時に。
埃が積もっているほどに、大事にしていないのがリアルな現実なのに、
捨てられないほどの思いを私はどうして持っているのか?
と、これは心の問題ではないのか?と気がつくわけです。
大好きだったものを手放す不安。
それは、身の半身を失うかのような寂しさ。
しかし、目に写るのは埃をかぶっている姿。
こういった物達を相手にする時の、
最近の私の対処方法はこのようにしています。
大きめの段ボール箱を用意して。
その中に詰める。
「まだ捨てると決めたわけじゃないから」
そう言って、自分から不安を取り除いてあげます。
捨てない選択をする余地を残してあげます。
そうして、また普段通りの生活を送る。
大事だったあの子達のいた場所には
余白という空間があるだけ。
すっきりとした、空間。
あぁ、今の私は、こちらの方が好きだ、と。
いつしか、大事だったあの子達は
自然と手放せる距離に移動しています。
そうして、処分のための準備をします。
もう心の痛みはありません。
爽やかに、ありがとう、と手放します。
物というものは、
自分の手に渡ってきたと同時に
そこに命が吹き込まれるのだろうと思います。
「私の場」において、それは
「無機質な物」としてでなく
「命あるもの」として存在するようになるのです。
それが人なら。
別れる時が来たなら、去っていくでしょう。
どんなにすがっても、
叶わない相手であれば、
去っていってしまうでしょう。
しかし、物は。
自分から離れていってはくれません。
自分から離していかなくては
私の元から離れていくことはないのです。
でも、積もった埃が現実を教えてくれています。
段ボール箱は、自分自身へのせめてもの優しさ。
さようなら、と言う時間を与えてあげる。
これにより、苦しみを最小限にして
手放すことを無理なく出来るようになります。
壮大ですねw。
たかだか物に。
でも、されど物。
こんなに葛藤するなら、と。
今ではむやみに物を買わなくなりましたw。
良きw。
お読みいただき、ありがとうございます。
すっきりとしたリビングには、
今は長男が始めた習い事のギターが
ブラックのカホンと一緒にカッコよく並んでいます。
今の私が大事にしたいことが
生活の中で輝いています。
それでは。
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